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0. ない 

 何も信じなければ裏切られることはない。私にとって他人に裏切られるよりも自分自身に裏切られるほうが傷は深い。それならいっそのこと、自分を信じなければいいのではないかと考えるようになった。責任を放棄することが救いになるとは思わないけれど、これ以上傷つくことはないだろう。

 

1. 或る

 「生きている実感が欲しい。」目を瞑っても、目を開けても、私の見える世界はあまり変わらない。まぶたで遮る視界は真っ暗で、その先に何があるか分からない。僅かな光と暖かさなどは感じられるかもしれない。たとえ目を開けたとして、私に一体何が見えるというのだろうか?何も分からないものが視界に広がる。私にとって意味の無いものは、真っ暗で見えない世界と同義である。通りすぎる景色も人もすべてが平等に無意味だ。誰も私を殺そうとしなければ、生かそうともしない。かくいう私も景色の一部に見え隠れしてぼんやりと霞んでいく。私も平等に無意味。もしも目の前の世界が崩れ始めたりするならば、私は何か意味を見いだせるのだろうか。「死ぬかもしれない」という恐怖だけしか残らないような気もする。つまらない人間だな、と思う。

 

2. 時間

 時間の経過のことを考えていた。というのも、好きだったアーティストが5年ぶりに復活したから。私が高校生だったとき彼は突然すがたを消した。暗い曲調のせいか死亡説も出ていた気がする。私は彼の顔も人間性も声も知らない。ただ彼の作る音がとても好きだった。彼が消えてしばらくは「行かないでほしい。置いていかないでほしい。」と重い彼女のような気持ちになって少し落ち込んだ。

 彼が引退してからはアルバムを聞くときも、YouTubeでPVを見るときも、どこかお墓参りをしているような気持ちになった。彼はもういない。でも作った音楽たちはポートフォリオとしてずっとそこに残り続ける。彼の活動場はネット界隈だったからなおさらだ。どれだけ深くネットの海に沈みこんだけところで、いつでも取り出せてしまうのだ。お葬式から日がたてばお墓参りの数も減るかの如く、私もだんだん彼の音楽を聞かなくなってしまった。悲しいもので、流行り商売とは新しいものを産み出し続けない限り忘れ去られてしまうものらしい。

 私は年々音楽そのものをあまり聞かなくなっていった。理由は幾つかあるけれどここでは詳しく述べる必要もない。音楽も本も映画も誰かと共有しなくても楽しめる。むしろ私は好きなものこそ一人で楽しみたかった。でもあの頃私が選んだ関係性はそれを許そうとはしなかった。そして私自身も傷つくことが恐かった。

 何かにカテゴライズされるのが苦手だった。だからこそ、本当に好きなものは一人で楽しむものだと思っていたのだろう。理解されなくてもいい。ただ私が好きならそれでいい。でも大人になるにつれて、関係性を構築するにつれて、何かにカテゴライズされるほうが楽なのかもしれない、とも思うようになった。「演じる」なんて大それたものではないけれど、柔らかいものを守るためには盾が必要でしょう?

 5年ぶりにアップされた彼の曲は当時の曲調とはガラリと雰囲気を変えていた。少し気になって調べてみると、彼はもともとhiphopにはまって音楽の世界に入ったそうだ。それはそれで納得がいった。曲調が変わっているということは、彼が引退したあとも音楽を作り続けていたという可能性もあって嬉しかった。曲調が変わっても好きだなと思えたことに、私も案外全てを捨てきったわけじゃないのかもな、と思った。

 

3. 最近

 最近は何もしていません。少しDTMをしたり。