ももちゃん

0. neo city

どうしようもなくなった夜、家を出てふらふらと歩いていた。あてもなく、ただただ進む足に責任はなく感情はすべてイヤホンから聞こえてくる音に投げ捨てた。40分ほど歩いて、近くにある母校を一目見ようかと思いもしたが、反対側の鴨川へ行こうと思った。川の流れる方向に逆らって私はゆっくりと歩き続けた。なんだか疲れてしまったので椅子かベンチを探してそこへと腰かける。ここには誰もいない。イヤホンを外し川を正面から見ながら、これまでのことや将来のことを考えた。
自己肯定感を極限まですり減らすことによって苦しみの天秤をつり合わせる毎日。昔の思い出に対して涙することしかできない人間にとって、その行為を必要としない人間とは理解できる範疇の境界が違うのだろう。一瞬一瞬で死んでいく感情と一貫性をもてない自我。私は自分が誰なのか分からなくなる。鏡に向かってときおり話しかけてくるこの子が誰なのか分からなくなる。

誰かに優しくされる。言葉をかけてくれる。心配してくれる。そんな当たり前の人間関係にすら私は疑問を感じずにはいられない。誰の言葉も真実ではないと思ってしまう。「いらない子。出来損ない。」という言葉に縛られて、それがすべての行動の軸となる。マイナスからのスタートである私は、人よりも頑張らないと普通になれない。「頑張れ頑張れ」と小さくぼやけたかつての家族が言う。でも頑張っても私が欲しかったものは手に入らなかった。「愛されたい。」それは誰かにではない。私は家族に愛されたかった。私が欲しかったものはその思い出。ただそれだけ。もう二度と手に入らない。

 

1. 創造

痛みは愛だ。私が見つけたもの。暖かい血と鈍く痛む傷には愛しさが生まれる。少しだけ自分が私を見てくれてるような気がする。どこにも居場所がなくても、そこには私が作った線がある。線と線を結べば空間が生まれる。私はこの傷に対しても痛みに対しても人格として取り扱っている。行為に付随した神経感覚に名前を付けるなんて狂気的なことなのかもしれない。でも人形に話しかける小さな子供のように、私は誰かに聞いてもらえたかもしれない話をとりとめもなく話す。傷は鈍く痛むことで私にうなずいてみせる。死のことを考えると安心する。死にたいわけじゃない。ただ安心する。誰も分からないものにもたれ掛かることに。もう何も思い出さなくてすむことに。いつかみんな死ぬ、それで充分。

何分も座り続けているのに誰も通らない。水の量はいつもより多くて、最近の晴れ続きにしては不思議な感じだった。水面にうつってユラユラ揺れる街灯とか何色にでもなれる透明な水の色とか、そんなものをずっと見ていた。

 

2. ネットアイドル

数年前の記憶。ベランダから外の景色を眺める私自身のビジョン。ここは4階。部屋の中から私に声をかける女性。その言葉がずっと忘れられなくて。

好きだった女の子が年内で活動を休止するとSNSに投稿した。彼女をSNSで見つけたのは高校のとき。ちょうどTwitterが世界で普及し始めた頃。だんだん学校に行けなくなっていた私は、自分の居場所を彼女に投影した。私の中の暗い闇を全て彼女で覆い尽くすことで、私は何とか生きることができた。彼女は平気で嘘をつく。自撮りも文章も詩も、加工と盗作の産物だった。当然2chではアンチスレが立つし、コンプライアンス問題にも引っかかっていた。それでも私は嘘を続ける彼女に安心した。偽りの彼女の真似をする私もまた同様に偽りだから。大学生になったとき、私は彼女が出るという舞台を観るために東京まで行った。手ぶらで。気持ちの高揚等といった感情は全く皆無で、知らない人の葬式にでも行くかのような気分だった。舞台上の彼女は確かに写真とは別人のようだったけど、今まで液晶越しで見ていた人間が目の前にいることがとても不思議だった。舞台が終わって出待ちのとき、そのまま帰ろうとしたが何度か足をふらつかせて階段を行ったり来たりした末、彼女に話かけた。「ずっと好きでした」なんてチープな言葉がスルッと口から出てきて、涙が止まらなかった。ずっと好きだったんだな、と思った。この感情だけは本物で、それ以外は嘘でもいいと思えた。「ありがとう」と言って、何故か少し泣きそうな彼女に、私はやはり自分を投影せずにはいられなかった。

 

3. 屋上へ

あのときベランダにいる私に話かけた女性は、私と生きることではなく死ぬことを選んだ。理解ではなく拒絶。私たちは疲れきっていた。それは事実。人は分かろうと努力することは出来ても、分かり合うことなんて絶対できないのだろう。それなら私は、嘘の言葉を吐き続けて嘘の顔で生きていく。受容されるものを産み出していく。嘘をついても他人から奪っても、それがあの頃の私を救った彼女から見つけ出した生きる方法なのだとしたら。彼女の引退が過去に決着をつけるきっかけだとは思わない。葬り続けた過去は未だに現在の足止めになっていて、私は今を生きられない。「ずっと好きでした」という言葉が過去形であったにも関わらず、引退の言葉に寂しさを感じるくらいには、これからも未練がましく何かに執着し続けるのだろう。