切手のないラブレター

0. 陰影

枯れた花束を抱えていても綺麗だと思った。むしろ退廃的な雰囲気が良く似合う人だった。真っ直ぐで長い黒髪と真っ白な肌。大きな目と高い鼻。真っ黒でフリルのたくさんついたワンピースと同じく真っ黒でリボンのついた高いヒールのブーツ。すべてがあの頃の私には無いもので遠く遠く憧れた。世界で一番好きだった女の子。私は彼女になりたかった。誰かの人生をなぞるような生き方なんて本当の幸せではないのかもしれない。何が幸せなのか、どんなものが普通なのか分からない。生きることに絶望を重ねて、それでも生きるしかなかった私は、自分を彼女に委ねることで一種の安心を得ていた。だけど消えてしまった。液晶越しになぞる輪郭を私はもう思い出せない。

 

1. 箱庭ゲーム

 毎年、今年でお終いにしようと考える。外を歩くと5分置きごとに襲いかかってくる絶望の正体が何なのか分からなくて、立っていることが難しくなる。年々その感覚が短くなってきているのことに、私はちゃんと気が付いていて、いつか自分が狂気に陥ってしまうのではないかと不安に感じる。明日死のう、明日死のうと思いながら正気を保っていることはとても苦しい。誰かのフリをしたり、演じてみたりと色々試して、この人生を私なりに工夫して乗りこなそうとしてみた。それでもこの絶望は「自分は自分でしかない」としっかりと現実を連れてくる。

 私は私でないときが度々ある。その時の記憶は曖昧で、ときどき目の前の他者が誰なのか分からなくなる。どんなに月日を積み立てた相手だとしても、それは私との思い出なのか記憶の双子が産み出した嘘なのか分からない。嫌なことがあると全て無かったことにしてしまう。セーブでもコンティニューでもなくリセットボタンを押す。私にはそれが出来る。幼い頃の自己防衛によって編み出された忘却能力は、確かに抱えきれなかった苦しみからあの頃の私を救っていたのだろう。だけれど殺人を犯した者が2人目からは容易に人を殺せるようになるという通説のように、私はそれを簡単に実行しすぎてしまったのだと思う。自己統一性が全くなくて、意図せず消えていく「その時はあったはずの感情」が、全く見知らぬ誰かの物のように感じずにはいられない。意図せず消えてはいくけれども、自己が消える瞬間に気付くことは時々ある。どういう条件でそれに立ち会えるのかは知らない。消えていくことを止めたいと思う意思が私には無いので、ただ遠くから自分を虚しく観察するだけ。

 

2. 欠陥

 私の職場は2階建の一軒家で、去年の6月に建てられたばかりだ。新築のそれが出来上がる頃に、私は中途採用で入職した。まだ半年程しか経っていないけれど、職場の建物の欠陥とそこで働く人間の性質とは関連性があるのではないかと感じる。目に見えた結果に(まだ在職中の身としては気が滅入るので)考察なんてしないけれども。欠陥建物はそこに入る時点から苦難を強いている。まず門の鍵が回らない。鍵穴に鍵を差し込んで少し上に鍵を持ち上げるか、反対方向に回してからもう一度正しい方向に回すことで開く。閉めるときもまた然りだ。鍵穴と鍵がマッチしていないのだろう。社員用の勝手口は門のある正面から見て建物の裏側にあるので、門から入って建物の横を180度回って中に入ることになる。門を抜けてもまだ試練は残っている。晴れた日は何も問題はない。ただ雨の日は厄介だ。裏側へと通じる建物と隣接する家の壁の間が狭いのでそこを抜けて勝手口へ回るには傘を折り畳むか、すぼめないと通れない。そこには屋根がないので傘を畳むと雨に濡れるし、すぼめるとすぼめた傘から滴る水でまた濡れる。大体はすぼめた状態でそこを通り抜け裏側の入り口の鍵を開ける。(セキュリティーの為か鍵穴が2つもあって、どちらも回さないと開かない。もっと配慮することがあるだろうと思うが。)一応玄関であるはずのここにも、やはり屋根はない。大概出入りの際にはPCや書類を持っているので、それらを守りながら、傘を効果的に持って鍵を開ける余裕はない。傘は一旦畳むか、畳んだ状態で下に置くかしかない。(勿論この玄関前も狭いので広げたまま下に置くことはできない。)結果的に濡れながら2つの鍵穴を回すことになる。こうして雨の日は通路と玄関で2回殺されることになる。出入りの激しい職場なので、この戦いは1日に2回どころでは済まない。もし雨が赤色だったら、私は退勤する頃には頭から足先まで血塗れになってるはずなので、このストレスが可視化することが出来るのではないかと思う。そうやって毎日は続いていくんだ。

 

3.  ゆらめき

 毎日がバンジージャンプだ。朝起きて私は自分がバンジージャンプ台に立たされていることを思い出す。命づなを腰に巻いて、高い高い台から下を見下ろす。見下ろした景色に意味はない。それらは私を取り巻く全てであるし、私が拒絶したい全てである。飛び降りなければならないのだ。足下の道はそこで途絶えているし、戻る場所も蹲るスペースもない。何故なら後ろには沢山の人が。人、人、人。私が関係してきた色んな人が、私が飛び降りるのを今か今かと見ている。私は目を強く瞑って心を無にする。何かが始まる時はいつでも無だ。無の世界で私は心と切り離されて、体だけが真っ逆さまに下へ下へと急加速で落ちていく。それは一瞬の事で何かを考える余裕もない。気づけば私は命づなに繋がれたまま、ゆらりゆらりと揺れている。頭上から台の上に居る人達が満足そうにこちらを見下ろしている。社会に迎合するとはこんな感覚なのか。ゆらゆら揺れ続ける体を意識しながら、やはり心は無のままで、気付けば1日が終わっている。いつかこっそり腰に巻かれた命づなを外して飛び降りる日が来るのかもしれない。その時始めて心に感情が戻ってくるのだろうか。頭上の人たちはどんな顔をするだろうか。きっと私は笑っていると思う。